2014年12月01日

日本人の感性

10世紀から13世紀に日本に無常観が定着していると言われる。
仏教が教える無常観は、諸行無常という言葉が示すように、
あらゆる存在は生じたり滅んだりするものであり、永遠である事が
できない、という意味である。

あらゆるものは変化し、そのすがたを永遠にとどめる事が出来ない。
愛する人も、いつかは老いさらばえて死んでいく。
栄華の限りを尽くした豪邸も、天変地異や戦争の前にはひとたまりもない。
私の生活を支えているものは、全て消滅していく。
いやそればかりか、私自身はもっともはかない存在なのではないか。

こうした日本人の感性、無常観は、四季の移り変わりの中で
育まれたものなのだろう。
生活様式や食事など、我々の生活の基本は常に四季とともに
育まれてきた。季節の変化に先んじて気づくことで
次の季節の準備を早く始める事が出来たし、
桜が散る前に、海に入れなくなる前に、最後の一時を別れを惜しみながら
感じる事が出来たのだ。

四季折々の自然が織りなす繊細な表現は、
私達の感性を耕したように思う。
日本人が細部にこだわって完成度の高い製品を作り、
茶の湯に代表される侘び寂びの空間・時間の使い方は、
紛れも無く四季、そして山・森・海・川など多様な
自然に囲まれて生きていた歴史があるからだと思う。

中国・韓国と3年間の海外赴任を経て日本に戻ってきた時、
改めてこの感性に誇らしさを感じた。
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2010年07月19日

宗教に無関心な日本人

宗教とは何か?
こんな事を考える機会はあんまり無い。
宗教と言えば何やら怪訝で、危険な匂いのする、自分とは関係ないもの。
そう考える日本人は多いだろう。

せいぜいお葬式や結婚式のときにお世話になるのが関の山だ。

だが、このような日本人のあり方は世界的にごく稀であり、
世界中のほとんどの国で、宗教は日常生活の中に溶け込んでいる。

人間は必ずいつか死ぬ、という事を人間は知っている。
それは人間が知性を持っているからだ。
そして人間はいずれ己が衰え弱り、誰かの助けを借りなければ生きられない
存在である事も知っている。
だから人間は社会を組織し、その内部は価値や意味で満ちている。
しかし時に誰もが思う。

われわれは何者で、
どこから来て
どこへゆくのか。


この知性を超えた問いに対して、
ある側面から納得解を与えているものが、宗教なのだ。
かつての日本人の生活は、自然と共にあった。
すなわち、宗教のように体系立った学問がなくとも、
自然との共生の中で、知性を超えた問いに対する答えを感覚的に
知っていたのである。それゆえ、宗教心という自覚は育たなかった。
それでよかった。

だが自然との共生が綻んでいる現在、
日本人に宗教は必ず必要になってくる。
なぜなら人は弱い。
よりどころが無ければ正常ではいられないからだ。
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2010年07月11日

二十四節季

ご存知ですか?
かつて日本は一年を四季ではなく、
それを更に細分化して二十四もの呼称で表現していたのです。
【春】
立秋
雨水

春分
清明
穀雨
【夏】
立夏
小満
芒種
夏至
小夏
大夏
【秋】
立秋
処暑
白露
秋分
寒露
霜降
【冬】
立冬
小雪
大雪
冬至
小寒
大寒


素晴らしきかな、この細やかな感性。
日本人である事を誇りに思います。
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2010年06月17日

デュアルスタンダード

日本人はデュアルスタンダードを取り入れるのが上手いと言われる。
古代は和漢折衷。
隋・唐など現在の中国より多くの事を学んだ。
文化、学問、国家の成り立ち等だ。

近代は和洋折衷。
ご存知のように、文明開化と称された脱亜入欧の風潮は、
学ぶというよりは完全受容でったが、いずれにしてもそれにより
日本は近代化を果たし、経済大国ニッポンとなった。

日本は異文化から学び、受容することで、
自国の文化を練り上げていったのだ。

そして現代。
我々は世界から何を学ぶべきなのか。

まずは学ぶ姿勢を持つことから始めよう。
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2010年06月12日

長幼の序

古くから日本人は長幼の序、つまり、年齢による序列をことのほか大切にしてきた。年長者を敬う風習は全世界に見られることだが、日本のそれは儒教の影響を受けてさらに発展したとされる。
もともと、神道の中心的概念である祖先崇拝という土壌があり、
それと儒教という体系化された学問が融合し、極めて強い祖先崇拝が生まれたのだと思う。祖先神である氏神を頂点にし、順次、年齢による序列が高まっていったのである。従って、最も年齢の高い者こそ最も神に近い者として、尊ばれたのである。

日本には「敬老の日」がある。

国民の祝日に関する法律(祝日法)によると、敬老の日とは、
「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日」
とされている。この敬老の日は昭和41年(西暦1966年)に定められた
ものである。
こういった趣旨の祝日は世界でも非常に稀であり、
日本独自の文化なのである。


少子高齢化。医療費削減の問題。
これらは長幼の序や敬老の精神を取り戻すことで、
解決策が見えてくるのかもしれない。

そして、年功序列も悪くない、とさえ思えるのだ。
posted by たかしまん at 14:17 | 東京 ☁ | Comment(0) | 日本について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月10日

感性が鋭い日本人

秋きぬと
目にはさやかに見えねども
風のをとにぞおどろかれぬる

平安時代の歌人、藤原敏行が立秋に詠んだ『古今和歌集』所収の歌である。紅葉などまだ目にはハッキリした変化は見えないけれども、
風の音に秋の到来を実感したという意味である。

なんと鋭敏な感性だろうか。
四季の細やかな移ろいの中で、日本人はその移ろいを風の音・草木の色・空気の温度等によって敏感に感じ取り、季節の変化の気配を感じ取っていたのである。

その感性をビジネスの場に活かすとしたならば、
それはマネジメントだろう。
メンバーの状態・組織に充満している空気感等、
それらを敏感に感じ取り、適切な処置を早めに講じる。
そうすれば問題が起きることなく、メンバーモチベートしながら
業務遂行するチームを構築出来るだろう。

日本人こそマネジメントに適している国民はいない。
経験からそう断言出来る。
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2010年05月25日

寺と神社の関係

日本へ仏教が伝来したのは538年(日本書紀によると552年。元興寺縁起などでは538年)と言われているようです。
百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上したことが仏教伝来の始まり。その後,推古天皇の時代に「仏教興隆(こうりゅう)の詔(みことのり)」が出され,各地で寺院建設も始まりました。命ある者がこの世で受ける恩の中でも最も大切な親の恩に対して、感謝をし冥福を祈るために仏像を身近に置きたいと考えました。ここに仏教信仰が始動します。

この仏教信仰の高まりに危機感を覚えた神社側は、
あくまで日本の神々を仏様の上位に置きたかったからなのか、
豪族や武士を中心に僧侶を雇って神前で仏事を行うようになった。
神宮寺と呼ばれる仏事と神事を執り行う神社である。

このようにして神仏習合が始まったのだが、
仏教との出会いによって神道の深みが増した事は間違いない。

神道の衰退を防ぐという切迫した状況があったにせよ、
自分達の信仰を速やかにアレンジできる”寛容”の精神に、
またもや日本人のアイデンティティを見た気がする。


歴史は深い。
posted by たかしまん at 21:45 | 東京 ☀ | Comment(0) | 日本について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月23日

無常観

鴨野長明の「方丈記」と兼好法師の「徒然草」。
いずれも中世の名作であるが、根底に無常観を感じさせる文章である。

幼き頃は教科書上の人物としてしか認識できず、
特段の感慨も無く読んだものだったが、
この年になって再読すると当然だが感じ方は大きく異なる。

昔も今も日本人の感性はそれほど変わらない。
出世をのぞみ、女の尻を追いかけながらも、
四季の移ろいを味わいながら生きる。

愛すべき庶民の姿や感性がそこにあった。
posted by たかしまん at 18:56 | 東京 ☔ | Comment(0) | 日本について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

縁日

われわれ日本人にとって、
縁日という言葉は非常に親しみ深い響きがある。縁日という言葉を聞くと何となく温かい、ほっとした気持ちになるものだ。

そもそも「縁」とは仏教の中心思想で、
何らかの結果を生じさせる「原因」をさすものだ。
そして縁日というのは「有縁日」「結縁日」の略語であり、
元来は仏・菩薩と縁を結ぶ日という意である。

そしてその縁は人それぞれのものであり、
たまたま仏様の夢を見たとか、寺社の前を通ったら信仰心を持つように
なったとか、個人個人に縁日があった。
それがいつしか特定の日に移り変わり、その日に寺社に参詣すると、
大きなご利益が得られると考えられるようになったのである。

お寺や神社で露天が境内をにぎわす縁日は、
仏教が盛んになった鎌倉時代からといわれている。

今でもなぜか縁日に行くと郷愁の念にかられ、
始めて来た場所にも関わらず、
なぜか懐かしい感覚に見舞われる人も多いのではないだろうか。
それは昔から脈々と受け継がれている日本人のアイデンティティを
感じるからかもしれない。

このような縁を大事にする感覚は当然ビジネスにも持ち込まれる。
ふとしたご縁で大きなビジネスが始まることもあれば、
紹介から始まる仕事は成約しやすく、人は熱心にサービスを提供したりする。「ご縁ですねぇ」と感慨深く話し合ったりする。

縁という言葉に言い知れない超人的な力を感じているのだろう。
posted by たかしまん at 00:32 | 東京 ☀ | Comment(0) | 日本について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月22日

追善と企業倒産

自分達の祖先を敬うという価値観は世界中に見られますが、日本人ほど強い想いを持って祖先を供養する民族は珍しいかもしれません。
古くから私達日本人は先祖の霊を鎮め祀り、それにより先祖の霊はやがて氏神となり、土着の民を護ってくれると信仰されていたのである。

さらに仏教が伝来するとその信仰は進化し、
死んだ祖先の霊は仏になると考えられるようになる。
祖先の霊は神であり、仏でもある尊い存在と昇華したのである。

特に仏教では現世の間に善行を積むと極楽浄土に行けると考えられており、因果応報の仏教の中の中心思想である。
しかし死んだ人間は善行を積むことが出来ないので、
生きている人間が故人に代わり善行を積んで、成仏を支援しようという
考え方が生まれてきた。これが「追善」である。

また四十九日までは死者の霊が不安定な時期だと言われており、
故人の命日から七日ごとに七回、つまり四十九日までは追善が
盛んに行われるようになったのである。
特に四十九日は中陰といわれている。

この中陰が過ぎると無事に成仏出来ると考えられていたのだが、
その後は百箇日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、三十三回忌と
都合十三回の追善を行うという日本独自の風習が行われるように
なったのである。

会社は法人と言われる。
昨今、伝統を誇る企業が倒産・M&A等により消滅する事態が
多々発生している。

存命期間に社会に何らかの貢献をしてくれた企業。
そんな法人としての企業を悼む風習が、
今後生まれても良いかもしれない。


考え過ぎるかもしれない。
posted by たかしまん at 20:18 | 東京 ☀ | Comment(0) | 日本について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月20日

続・神仏習合とM&A

神道の基本は「祓い」にあり、様々な穢れや災いを予め清めてくれる。
しかし、例えば神道は疫病の予防には大きな力を発揮すると考えられているが、いざ疫病にかかるとそれを穢れとみなし、積極的には治してくれないのである。また神道は死の穢れを極端に嫌う。
その穢れを懇ろに葬って仏教風に言えば菩提を弔うなどという事は
してくれないのである。
この神道に不安や頼りなさを感じた人々が、神々が仏教に帰依するという
神仏習合の思想を生み出したのである。

それが形となったものが、昨日述べた託宣なのである。
この神仏集合は平安時代の中ごろからすっかりと定着し、
その後1000年以上も日本人の宗教心・精神文化の中心として根付いたのである。

神々が仏教に帰依するという大胆な発想こそ、
日本人の柔軟性・寛容・進取の精神を如実に表している。
良いものは良いと謙虚に受け止め、拒絶せず、依存もせずに
融合させる。日本人の素晴らしいアイデンティティである。

そう考えると米国で始まったM&Aという手法はまさに異文化の融合であり、日本人の特性が大きく生きる経営手法かもしれない。
ただM&Aした企業が大きくパフォーマンスを向上させた事例を
私はあまり知らない。

それは元来持ち合わせている日本人のアイデンティティ、柔軟性・謙虚さ・融合による新価値の創造を失って来ているからではあるまいか。


考えたい。
posted by たかしまん at 23:42 | 東京 ☔ | Comment(0) | 日本について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日本的信仰〜神仏習合〜

日本人は古くから、いわゆる八百万の神を信仰してきたが、6世紀前半に仏教が輸入された際に、日本古来の神々と外来の神(仏)との間に不協和音が生じてしまった。

その不協和音は間もなくソフトランディングして、
神仏が渾然しながらも争いなく共存する世界が実現した。
しかもその世界が千年以上も日本人の心に根付き続けたのである。

このような最も日本的信仰である神仏習合の考え方を
端的に著している書物がある。

三重県の多度大社に伝わる『多度神宮寺伽藍縁資材帳』である。


”私は長年にわたって神道の修行をして、領民の幸せを願ってきた。
 しかしながら、近頃神道の力にも限界を感じるようになった。
 ついては仏法に帰依してその修行を併修する事によって、
 領民のさらなる幸せを願おうと思っている”

多度の大神の託宣である。
もともと日本の神である多度の大神が仏教に帰依した理由。

そこには神道の限界が垣間見えるのである。


続きは次回。
posted by たかしまん at 01:20 | 東京 ☔ | Comment(0) | 日本について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月17日

お辞儀をする日本人

日本人に特徴的な作法の1つとして、お辞儀があげられるだろう。
日本人がお辞儀をするのは、礼節を重んじる儒教の影響もあるようだが、
神への畏敬の念が必然的にお辞儀の作法を産んだ気さえする。

日本人にとって神とは自然であり、遠い祖先であるのだが、
生きているヒトで神に最も近いのは、共同体の年長者である。
その年長者の姿に神を重ねた事から、彼らを敬うお辞儀の作法が生まれ、
そして年長者を敬う文化が根付いていった。
敬老の日という祝日も世界では珍しい事のようだ。

目上の人を敬うという道徳は、
歴史に裏付けられた日本人のアイデンティティであり、
伝統なのである。


まずは明日、自分の親に感謝を伝えよう。
そして可能な限りで上司にも。
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2010年05月15日

お祭り好きな日本人

今でも全国各地で様々な祭りが行われている。
その原点はムラの氏神崇拝であり、氏神祭りである。
氏神とは同じ共同体(ムラ)の祖先神を中心とするものである。

日本の庶民が墓を作るようになったのは室町時代からのようで、
それまでは山中に死体を遺棄する風葬が慣例であり、
死体は穢れのあるものだとされていた。
捨てられた死体の魂は山中を彷徨い、やがて山頂から昇天する。
それら魂は過去に昇天した同じムラ出身の祖霊と融合して、天界に
とどまる。この祖先の霊の集合体が「氏神」なのだ。
この氏神は村人たちを守り、幸せを与えてくれると考えられていた。

普段は天界から見守っている氏神が、
時として山頂付近に降臨する時期がある。
この時期に祭りが行われるのだ。

祭りの語源は「まつろう」という言葉であり、
まつろうとは尊い人(神)の側に畏まって仕えることだと言う。


人は嬉しいことが続いたときに、
「祭りだ祭りだ〜♪」と嬉々として喜ぶ。

無意識に神様の力の働きを感じているのかもしれない。


「神の見えざる手」

そしてそれは市場経済の中にも確かに存在している。
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2010年05月14日

仏壇を拝む

祖母の家に和室にある仏壇を思い出す。

幼い頃、そこに何がいるのか、誰がいるのかは知らなかった。
だた仏壇の前に来ると何となく神妙な気持ちになり、
大人がしているように、手を合わせずにはいられなくなる。
手を合わせない事はある種の罪を犯している感覚さえあった。

やがてそこには先祖、そして亡き祖父が祀られている事を
しるのだが、そうして死後の世界や命の重み・繋がりを本能的に
感じるようになる。
生の尊さを感じ、死の現実に怯え、遠い先祖に感謝するのである。
自分は一人で生かされているのではない。
連綿と続くバトンをたまたま今、受け取っているだけなのだ。


企業も同じである。
創業者の思いを受け継ぎ、いまこの時代に私達がバトンを受けて
日々の業務に邁進している。
自分達の日々で会社の歴史を作っているのだ。

そのような自覚を持っていられるのならば、
転職者はもっとずっと減るのだろう。


感じる。
posted by たかしまん at 01:34 | 東京 ☀ | Comment(0) | 日本について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月13日

国家意識が希薄な日本人

日本人は国家意識が希薄だといわれる。
それは選挙の投票率の低さを見ても明らかであろう。

歴史的にムラ社会を基盤している日本人は、
小さな世界に目を向けて生活してきた。
この事が国の政治と庶民との間に乖離を生み、
お上のことはお上に任せて置けばよいという、
現在の日本人に通ずるマインドが形成されたのである。

従って自分達のムラ(=地域)を良くしてくれる政治家への
信頼は厚く、大きな不満が無い故に自分達の現在の生活を壊される事も
嫌うので、地盤を築いている政治家が連続して当選するのである。
例え国会で恥をさらしたり、不祥事がマスコミで報道されても、
選挙活動によって自分達のムラ(=知識)への貢献が確認できれば、
投票してしまうのである。

ただ現代は、ムラ・地域⇒家庭⇒個人というように、関心範囲が
年々狭まっており、「個人の人権尊重」という言葉を盾に個人主義が
持て囃されているのだ。
当然その反動を受けて、公民としての公の意識は失われる。
電車で座る若者、化粧する女、平然と割り込み席を確保する老人。
あらゆる世代で「自分さえ良ければよい」という個人主義が
垣間見える。


企業でも同じ事が起きている。
部署最適しか考えないセクショナリズム。
会社への帰属意識が薄く、自分の都合ばかりを主張する若年層。
まさに企業は社会の縮図となっている。

日本にも企業にも欠けているのはビジョンだ。
利益追求を掲げていたら、最終的には個人主義に落ち着いてしまう。
マネジメント負荷も増大する。

誰もが、多くの人間が力を注ぎたくなるようなビジョンがあれば、
人は自ずと集結し、帰属意識を高めるものだ。

日本のビジョン。
今後考えていきたい。
ヒントは日本の伝統にあるような気がしてならない。
posted by たかしまん at 03:18 | 東京 ☀ | Comment(0) | 日本について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月05日

神道とは

日本人は無宗教だとよく言われる。
確かにキリスト教やイスラム教のように、唯一絶対の神を仰ぐような
宗教的下地はない。だが、だからと言って無宗教だと決めつけてしまうのは早計であると感じる。


「神道」


古来より受け継がれている神道が日本にはある。
神道は縄文時代より信仰されている。
あらゆる物(動物・植物・道具など全て)には霊魂が宿り、それら霊魂の働きによって生かされているという「精霊崇拝」。
そして弥生時代に形作られた信仰で、田畑を開拓した先祖達を神として祀り、その先祖達の霊魂が協力し合って、現世に恵みをもたらしてくれるという「祖霊崇拝」。この2つの信仰が神道の世界観を形作っている。

神道には経典や教義・戒律は存在していないようだが、

「自分の良心で判断して正しいと思ったことを行え」と説いている。

誰もが楽しく豊かに過ごす事を喜ぶ。であるならば、みんなが幸福に生活できる世の中にするにはどうしたらよいかを自分で考え(良心)、
人々の為になる事を行えと、日本の神様は教えるのである。
また、人間はだれもが五つの良い心を持っているとする。
即ち、

清い心
明るい心
正しい心
直な心
赤き(熱い)心

である。

これら教え、誰しも一度は聞いたことがあるだろう?
それは両親から、教師から、あるいは上司から。
意識無意識に関わらず、我々の教育の中に神道の考えはしっかりと根付いているのである。日本人の道徳の源泉なのである。

宗教とは物事の善悪を判断する為の倫理観とするならば、
神道は宗教的役割をしっかりと果たしている。
日本人は無宗教では無いのだ。


利益を追求するのが株式会社である。
資本主義の仕組みは規模拡大や利益追求を促進する。
だからと言って利益の為に、規模拡大の為に何をやっても許される
わけでは無いと思う。

経営の方向性を検討する際、

「誰もが楽しく豊かに過ごす事を喜ぶ。であるならば、みんなが幸福に生活できる世の中にするにはどうしたらよいか」


神道的見地に立って経営判断をする事で、
時として無機質な印象を与えるビジネス世界に、
人情味を灯せるかもしれない。

その判断が従業員の士気を向上させ、
社会からの賞賛を集め、
さらなる発展に繋がる事だってあるだろう。


願う。
posted by たかしまん at 01:52 | 東京 ☀ | Comment(0) | 日本について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月03日

和を尊ぶ日本人

日本人は「調和」を大切にすると言われる。
角が立たないように、誰かが不快な思いをしないように。
ビジネスの場でも、関係者の利害関係を360度想定しながら、
全体のバランスを見て判断を下す事は殊更に多い。
時には判断を下せずに結論を先送りしたり、玉虫色の決着になってしまう事さえある。

それは何故だろうか?

1つの側面として、
調和を重視する日本人の国民性があるかもしれない。

温暖湿潤気候に属する日本は、古来より肥沃な国土に恵まれ、
作物がよく育った。もちろん飢饉や天変地異・疫病は定期的に発生していたし、生きていく苦労が無かったわけではない。それでも比較的容易に生活していく事が出来たのではないだろうか。
それゆえ現状に満足していたわけで外の世界に出る欲求も生じず、
島国であったが故に外敵の侵入も少なく、平和に暮らしていた。
つまりストレスが無かったのだ。争いごとは基本的に極端なストレスから生まれる為、ストレスフリーな日本人には闘争本能が育たず、反対に
平和を維持するための精神が育まれたのだ。

そのような国民性に目を向ければ、差を生じさせやすい判断を嫌い、
バランスをとって調整する意識が働くのも当然といえる。
それで全体の納得度が醸成されればOKだ。

もちろん、スピーディに判断・決断して即行動に移さねばならない時もある。特に時間の流れが速い現代ではそうかもしれない。
それでも、この和を尊ぶ精神が長年培われてきた国民性であるならば、
判断しない事の価値も見出せるかもしれない。

判断をしない事が、全体の満足度が高い事だってあるのだろう。
posted by たかしまん at 03:27 | 東京 ☀ | Comment(0) | 日本について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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